北条時宗は18歳で執権職につき、不安な武家政治の中で心の支えとして、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていた。 北条時宗は禅を弘めたいという願いと蒙古襲来による殉死者を(敵味方区別なく、冤親平等に)弔うために円覚寺建立を発願された。 円覚寺の名前の由来は建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことから、また、瑞鹿山、山号の由来は開山国師(無学祖元禅師)が佛殿開堂落慶の折、 法話を聞こうとして白鹿が集まったという奇瑞から瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)とつけられたといわれる。 開山国師(無学祖元禅師)の法灯は高峰顕日、夢窓疎石と受け継がれその流れは室町時代に日本の禅の中心的存在となり、五山文学や室町文化に大きな影響を与えた。 円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府の篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備され、 室町から江戸時代幾たびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸末期(天明年間)に大用国師(誠拙周樗)が僧堂・山門等の伽藍を復興され、 修行者に対し峻厳をもって接しられ、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれた。 明治以降今北洪川老師・釈宗演老師の師弟のもとに雲衲や居士が参集し、多くの人材を輩出し、今日に至ってもさまざまな坐禅会が行われている。 静寂な今日の伽藍は創建以来の七堂伽藍の形式が伝わっており、山門,佛殿,方丈と一直線に並び、 (法堂はありませんが)その両脇に右側、浴室,東司跡、左側、禅堂(選佛場)がある。
−建物について− 禅宗様式の建物として今日国宝に指定されていますが、その特色としては、屋根の勾配の美しさ、軒の反りの美しいこと、柱の細いことがあげられます。 そして屋根の軒下から出ている垂木ですが、特に上の段の垂木はよく見ると、扇子の骨のように広がっているので、扇垂木と呼ばれています。 これが、屋根を一層大きく、また建物自体を小さいながらも大きく見せています。 長押の上に「弓欄間」または「波欄間」とも呼ばれている欄間があります。これは装飾ではありますが、この隙間から内部に光と風を送って、 建物の保存にま役立っています。 次に花頭窓ですが、鎌倉時代後期の特色としては、窓の形が簡素で、 窓の外枠のたての線が真っ直ぐになっているのが特徴です。(禅堂・江戸時代の花頭窓は広がっています) 外部の柱と基盤の間には、礎石があり、これが柱の下を腐らないようにさせています。特に鎌倉は湿気が強いのでこのような工夫が必要なのです。 屋根はさわらの薄い板で葺いてあります。こけらぶき(柿葺)といって少しずつ重ねて葺いてあります。 水に強いさわらの木(昔、風呂おけやなべの蓋に使った)ですが、25年に1度は葺き替えねばなりません。 内部正面に佛舎利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥檀があり、観音菩薩と地藏菩薩がまつられています。 その上は小さな鏡天井になっています。