乾徳山 恵林寺 臨済宗妙心寺派
甲州市塩山小屋敷2280

開山夢窓国師 武田信玄公・柳沢吉保公菩提寺

黒 門

    
恵林寺は1330年、夢窓国師によって開かれ、戦国武将。武田信玄が菩提寺と定めた臨済宗妙心寺派の古寺

  
四脚門(赤門)
織田信長により全山焼かれた後、徳川家康によって再建されたもので、1606年の棟札が掲げられ国の重要文化財に指定されている

  

 
三 門  (県の文化財に指定)

「安禅不必須山水減却心頭に火自涼」 (あんぜんかならずしもさんすいをもちいずしんとうめっきゃすればひもおのずからすずし) 和尚の遺偈(ゆいげ)が掛けられている門 武田氏を滅ぼした織田軍は恵林寺に押し寄せ、潜伏保護されていた者達を引き渡すよう快川和尚に命じましたが拒否され、 怒った信長が三門に快川和尚はじめ約百人の僧侶らを封じ込め火を放つ、 天正十年(1582年)快川和尚、壮絶な火定(かじょう)遂げた際の一句



  
開 山 堂
堂内には、夢窓国師、快川和尚、末宗和尚の三像が安置されている

末宋和尚は快川国師の弟子で、三門焼き討ちの祭、快川和尚の命を奉じて火を逃れた僧で、那須の雲巌寺に潜み、後に徳川家康に命じられ
恵林寺の再興にあたった僧。家康再建の後は、五代将軍綱吉の側近となる柳沢吉保が、信玄の法要を行うと共に寺内の修復をはかる。

  
仏舎利宝塔



   
開山堂の堂内







 
庫裡 禅寺のなかでもめずらしい、日本有数の大庫裡

信長による焼き討ちの後、徳川家康によって再建された壮大な伽藍は、明治38年の火災によってそのほとんどを焼失。
現在の本堂、庫裏も、明治末期に再建されたもので、戦中には東京の学童疎開の場となり小学生約150人が寄宿生活を送った場所。

 

  

  
本 堂
本堂には、ご本尊の釈迦如来が安置され、本堂西の間は貴人席となっており勅使が坐される間がおかれている









 
うぐいす廊下

日本の古来の建築物に見られる、人が床の板の上を歩く事によりきしみ音が鳴る様につくられた仕組みを、うぐいす張りという。 外部侵入者の危険探知の為に設けられたのがはじまり。廊下を歩くと、うぐいすの鳴くような音が聞こえてくる


うぐいす廊下

  
明王殿
うぐいす廊下を抜けると明王殿に武田不動尊が安置されている。武田信玄公が生前に対面で摸刻させたという

  
武田信玄公墓所

1573年、53歳で亡くなった信玄公はここに眠る。 命日の4月12日には毎年供養が行われており、 武田家家臣の墓約70基も信玄公を慕うかのように墓所後陣に並んでいる。





  
柳沢吉保墓所・・・徳川幕府老中・柳沢公の墓所、正室・定子様の墓石も並んでいる

自らの出生が信玄公と同じ甲斐源氏の一族、武川衆であることを強く自負していた吉保公の想いをくんで、 柳沢家の大和郡山への転封にあたり、吉保公夫妻の墓所のみ、ここ恵林寺に設けられた。

  
柳沢吉保公霊廟  木造彩色 柳沢吉保坐像が霊廟の中に納められている。

束帯で公事に着用する正装姿で、吉保自筆の納め状によると正徳元年(1711)に製作されて信玄菩提寺の恵林寺へ奉納安置した。

  
恵林寺庭園

国の名勝指定を受けている庭園。今日、恵林寺の庭園は、京都嵯峨野の天龍寺、嵐山の西芳寺(苔寺)庭園とともに、 夢窓国師の代表的な築庭庭園として有名である。 700年近い歴史を経たその姿は、四季折々に違った情景をみせる。


国指定名勝の庭園は、池泉回遊式庭園で夢窓国師の代表作に数えられる


670年余りを経たその姿は四季折々に違った世界を魅せている名園




R140 雁坂みち横に黒門入口が