武田信玄公が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)、 御本尊善光寺如来をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まりまる。 武田氏滅亡により、御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、慶長三年(1598)信濃に帰座した。 甲府では新たに、前立仏を御本尊と定め、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を勤め、徳川家の位牌所にもなっていた。
門の両脇には未完成の金剛力士(仁王)像が祀られており、重要文化財に指定されている 三門からの石畳の参道 正式名称は 定額山浄智院善光寺(じょうがくざんじょうちいんぜんこうじ)と称す
本堂は、当初永禄8年(1565年)に完成し桁行およそ50メートル、梁間がおよそ22メートル、 高さがおよそ23メートルと信濃善光寺のものとほぼ同じくらいの大きさであったが宝暦4年(1754年)の火災によって失われ、 現在の本堂は寛政8年(1796年)8月に再建されたものである。 善光寺に特有の撞木造(しゅもくずくり)で、桁行がおよそ38メートル、梁間はおよそ23メートル、高さが26メートル と最初のものに比べると規模は小さくなっているがそれでも東日本においては最大級とも言われる木造建築物である。 金堂中陣天井には、江戸の希斎という画家によって、巨大な龍が二匹描かれており、 この部分は吊り天井となっており、手をたたくと多重反響現象による共鳴が起る これを「鳴き龍」と呼び、ここの鳴き龍は日本一の規模を持ち、参拝者に親しまれている