明治時代の建造物を中心に移築、保存、展示する野外博物館 重要文化財10件を含む60以上もの歴史的建造物が立ち並び、明治の雰囲気を楽しめる
門柱は、赤いレンガに白い花崗岩を帯状に配して作られており、この構成は明治洋風建築によく用いられたものである。 また中央の両開門扉、脇門の片開門扉、袖柵は細い鉄材で作られ、軽快なものとなっている。
明治19年(1886)東京に高等師範学校が、又各県に一校ずつ尋常師範学校が設けられることになった。 明治21年に三重県の尋常師範学校本館として建てられ、本館の改築に伴い県下名張市の蔵持村に売却・移築され、蔵持小学校として使われていた。 明治村で保存公開されている三重県庁舎と同じ清水義八の設計となる。
宮城警護のために設置された皇宮警察の庁舎の一部で、明治20年(1887)坂下門内に着工されたが、建設中に用途を近衛局(近衛師団と改称)本部に変更して翌年に完成した。 その後、師団本部は移転したため、皇宮警察本部がここへ移り、昭和42年(1967)まで坂下護衛所として使用した。
聖ヨハネ教会堂は、明治40年(1907)京都の河原町通りに建てられたプロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会で、二階が会堂に、一階は日曜学校や幼稚園に使われていた。 中世ヨーロッパのロマネスク様式を基調に、細部にゴシックのデザインを交えた外観で、正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形大屋根がかかる会堂が配された教会である。 正面の妻と交差廊の両妻には大きな尖塔アーチの窓が開けられ、室内が大変明るい。 構造は、一階がレンガ造、二階が木造で造られ、屋根には軽い金属板が葺かれておりこれは日本に多い地震への配慮とも考えられる。 また構造自体がそのまま優れたデザインとして外観・内観にあらわれている。
明治42年(1909)に建てられたこの学習院長官舎も洋館と和館とをつなぎ合わせた形式になっている。 学習院長という公的な立場での接客や実務には洋館部分を使い、私的な生活には日本座敷を用いた。 立式生活の場である洋館は軒端が高くいかめしい造りで、洋風の下見板張の壁面には水切を兼ねた胴蛇腹が廻らされ、その上下に丈の高い上ゲ下ゲ窓が整然と並んでいる。 一方、座式生活の場である和館は、総二階建であるが、洋館に比べ屋根が低い。
木造総二階建銅板葺のこの洋館は、明治10年代(1877〜1886)のはじめ西郷隆盛の弟西郷從道が東京上目黒の自邸内に建てたものである。 西郷從道は、明治初年から度々海外に視察に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢に居た人物で、在日外交官との接触も多かった。
明治23年森鴎外が借家、一年余りを過ごした。又、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。 鴎外は、ここに移り住む同じ年の1月、処女作小説「舞姫」を発表、この家では「文づかひ」等の小説を執筆し、文壇に入っていった。
約10年遅れてこの家に住んだ漱石は、ここで「吾輩は猫である」を発表、文壇にその名を高めた。文中に描写された家の様子は、猫のためのくぐり戸をはじめ、よくこの家の姿を写している。 二人の文豪が相次いで住んだことは由緒のあることだが、この家が当時の典型的中流住宅であって、かつ現代住宅へ発展していく新しい芽がいくつか含まれている点も注目される。
間口が54mに及ぶ大きな建物で、玄関を軸に左右対称になっており、正面側には二層のベランダが廻らされている。 構造は木造で、内外とも柱を見せない漆喰塗大壁で、屋根には桟瓦を葺いている。 正面に突き出した車寄の屋根には手摺をあげ、入母屋屋根の破風には菊花紋章を飾るなどして建物の正面を引き立たせる一方、 両翼の正面側の壁面角には黒漆喰で太い柱型を塗り出し、全体を引き締める役割を持たせている。 窓は全て上ゲ下ゲ硝子窓であるが、妻面の窓は他の部分と異なり、外に鎧戸が付けられている。
全長16m余、総重量約22tの木製2軸ボギー車で、車内には帝室技芸員の橋本雅邦・川端玉章が描いた天井画、 昭憲皇太后のご実家一条家の家紋の藤をあしらった布が椅子や腰張りに使用されているなど、華麗な内装がなされている。