比叡山延暦寺

延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院 平安京(京都)の北にあったので北嶺とも称される 平成6年(1994)には、古都京都の文化財の一部として、ユネスコ世界文化遺産にも登録される 平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。

東塔地域
根本中堂
比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、比叡山では東塔という区域の中心的建築物である

伝教大師最澄が788年(延暦7年)に、一乗止観院という草庵を建てたのが始まりとされる


中堂という呼称の由来は、最澄創建の三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置することから薬師堂を中堂と呼ぶようになり、
後に一つの伽藍にまとめられ、中堂という名前が残ったとされる

 
中堂への参拝者が列をなす   国宝

最澄大師が灯す平等の教えが心に響きます。伝教大師最澄によって延暦七年(788年)に創建された延暦寺の総本堂で、現在の建物は徳川家光の命で寛永一九年(1642年)に再建されたもの, 最澄自作の本尊薬師如来像の前には、創建以来1200年の間、一度も絶えることなく灯り続けている「不滅の法灯」があります。 内陣が低い位置にあり、本尊や法灯が参拝者の目の高さと同じになっているのは、仏も人もひとつという仏教の考えを表しています。 比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、比叡山では東塔という区域の中心的建築物。1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定された。 内陣は僧侶が読経・修法する場所であることから別名「修業の谷間」といわれる。 内陣の本尊・不滅の法灯と中陣の参詣者の高さが同じという珍しい構造になっており、これを天台造又は中堂造と呼ばれ、天台仏堂の特色を示している。 中陣の天井は「百花の図」といわれ、二百に及ぶ草花が極彩色で描かれている。柱は76本あり、諸国の大名が寄進したことから「大名柱」と呼ばれる。 中陣中央には玉座がり、その上に昭和天皇宸筆の「伝教」と書かれた額が掲げてある。

 

  
総欅造。桁行11間(37.57m)、梁間6間(23.63m)、軒高約9.78m、棟高24.46m、屋根は一重、入母屋造
南側に中庭が配置される寝殿造となっており、その中庭に日本中の神々を勧請する竹台がある

堂内は外陣・中陣・内陣に分かれ、本尊を安置している内陣は中陣や外陣より3mも低い石敷きの土間となっている 本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられており(秘仏)、 その宝前に灯明をかかげて以来最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続け、不滅の法灯と呼ばれる


入口南側の石段は文殊堂へ、石段の途中より根本中堂を見る


大講堂
 
大講堂(重文)
天台座主第一世義真和尚の建立によるもので、僧侶が学問研鑽のため論議する道場  

   慈恵大師が始修され、四年目ごとに行われる比叡山の古儀「法華大会広学竪義」は、一人前の天台僧となる為の重要な儀式、階梯として現在につづいている 現在の建物は、昭和三十一年の旧堂焼失後、山麓坂本にあったものを移築したもので、堂内には叡山で研修された各宗派の御開山の尊像が安置されている


文 殊 堂

文殊楼は根本中堂の東側にあり、延暦寺の山門にあたり、徒歩で本坂を登ってくると、まずこの門を潜ることになる

  
慈覚大師円仁が中国五台山の文殊菩薩堂に倣って創建したものですが、寛文8年(1668)に焼け、その後建てられた

  
階段上に文殊菩薩が祀られている

 
文殊菩薩


萬 拝 堂
   


大黒堂


   
延暦寺会館   昼食をとる


  











西塔地域
釈迦堂
 
延暦寺転法輪堂(釈迦堂)      重文
西塔の中心をなす大堂で、ご本尊釈迦如来を祀ることから、釈迦堂の名で親しまれている



  



 






転法輪堂は、桁行七間、一重、入母屋造、栩葺形銅板葺の建物
織田信長の焼き討ち後、文禄四年(1595)に豊臣秀吉の命により、貞和三年(1347)頃に建てられたも園城寺弥勒堂の金堂(大津の園城寺(三井寺)が移されたもので、比叡山では最古の建築
正面の柱間がすべて戸口(入口)になっている珍しいもの

  

  
根本中堂と同じく天台様式の典型で、内陣は土間中央に本尊を安置する宮殿を壇の上に設けている

 

 












横川地域
横川中堂


  

 
懸崖に建つ舞台造の朱塗りが印象的お堂は首楞厳院(しゅりょうごんいん)又は根本観音堂とも呼ばれる
横川の中心となる大きな建物で、慈覚大師円仁が伝教大師の教えに基づいて嘉祥元年(848)に創建された

 織田信長による焼き討ちの後の慶長年間(1596〜1614)に再建された総丹塗りの立派な大堂が、昭和17年(1942)に落雷の為に全焼してしまいましたが、 本尊の聖観音像は幸い焼失を免れました。現在に見られる横川中堂は昭和46年(1971)の伝教大師1500年大遠忌を記念して復元された鉄筋コンクリートの建築物ではありますが、 淀君(豊臣秀頼の母)が改築した様式を踏襲して設計されています。円仁の遣唐船の形を模した船形の屋根になっています。  横川中堂は新西国霊場第十八番の札所でもあり、ご本尊には重要文化財に指定されている聖観世音菩薩がお祀りされていて、除災招福のご利益がいただけます。        本尊    聖観音像と毘沙門天像の2尊が安置されている