天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は国の特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 徳川四天王の一人・井伊直政は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、 西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。しかし、三成の居城であったことを嫌い、 城の縄張りとしては佐和山城城郭の方が数段優れていたが湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移そうと計画した。 しかし、関ヶ原の戦傷が癒えず慶長7年(1602年)死去した。直継が家督を継いだが幼少であったため、 直政の遺臣が彼の遺志を継ぎ再検討の末、慶長8年(1603年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の建設を開始した。 工事には公儀御奉行3名が付けられ7か国12大名(15大名の説もある)が手伝いを命じられる天下普請であった。 長浜城・佐和山城・大津城など近隣の城の遺材を転用した。特に天守は 4層の大津城天守を3層に縮小して移築したといわれている (天守がややずんぐりしているのはそのためであるという)。 時代劇の撮影等でよく使われて有名な天秤櫓は長浜城から移築したといわれている(内藤信成時代長浜城大手門)。 その天秤櫓は、掛橋を渡ったつきあたりの長い多聞の左右に2層2階の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。 慶長11年(1606年)二期までの工事が完了し、天守完成と同時に直継が入城した。 元和2年(1616年)彦根藩のみの手により第三期工事が開始された。 この時に御殿が建造され、元和8年(1622年)全ての工事が完了し彦根城が完成した。 その後、井伊氏は加増を重ね最終的に寛永10年(1633年)には譜代最高となる35万石の大封を得るに至った。 幕末の大老として有名な井伊直弼は、藩主となるまでの不遇の青春時代をこの城下で過ごしている。 直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している(昭和60年度から6年間にわたって修復)。