長等山円城寺 三 井 寺
天台寺門宗の総本山である三井寺は正式名称を長等山園城寺という。
滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有し、湖国近江の名勝、近江八景の一つ「三井の晩鐘」でも知られている
仁王門(重文)
三井寺中院の表門で、東面して建ち、両脇の仁王像が山内を守護している
甲賀の古刹常楽寺の門で、後に秀吉によって伏見に移され、慶長六年(1601)に家康によって現在地に建てられた
長い歴史の中で、再三の兵火にあい焼失するが、豊臣氏や徳川氏の力で再興された
釈迦堂(重文) 金堂へ
釈迦堂は室町初期の建築、中世寺院の食堂(じきどう)の様式を伝える。清涼寺式釈迦如来像を本尊としている
鐘楼(重文) 三井の晩鐘
近江八景のひとつ三井の晩鐘で有名な巨大な梵鐘を吊る鐘楼で、金堂の南東に建つ
周囲には、下に腰板を廻らし、上は連子をはめ込んでいる
近年まで屋根は瓦葺であったが、修理時における調査の結果、建立当初は桧皮葺であったことが判明し、現在は桧皮葺に改められた
金堂(国宝) 本尊弥勒菩薩
三井寺境内でもひときわ大きく威容を誇ってる。現在の金堂は、豊臣秀吉の正室北政所によって再建されたもので、
桃山時代を代表する名建築として知られる
内部は外陣・中陣・後陣に別れ、中陣は中心となる内陣の両側に脇陣を設けている。
内陣以外の床は全て板敷とするのに対して、内陣は土間のままとしており、伝統的な天台系本堂の形式をよく伝えている
本尊前
内陣の裏側の廻廊に並ぶ仏像
閼伽井屋(あかいや)(重文)
金堂西側奥に金堂と接して建っています。
三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に御産湯に用いられたという霊泉があり
「御井の寺」と呼ばれていたものを後に智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。
霊鐘堂(重文) 弁慶鐘(弁慶の引き摺り鐘)
この鐘は昔、俵藤太秀郷が龍神に頼まれて、大きなむかでを退治したお礼にもろうた鐘を、三井寺へ寄付したもの
一切経蔵(重文) 八角輪蔵
一切経蔵は一切経を安置するための堂で、内部には一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵が備えられている
三重塔(重文)
慶長二年(1597)、豊臣秀吉によって伏見城に移築された大和の比蘇寺の塔を慶長五年に徳川家康が三井寺に寄進したものです。
一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像が安置されています。
軒深く、三重の釣合よく、相輪の水煙などに中世仏塔の風格をよく伝えています。
潅頂堂 長日護摩堂
潅頂堂は寺院の密教を伝承する道場
長日護摩堂は本尊が不動明王で長日護摩供を修する道場
微妙寺
微妙寺は境内南西の一角にある。(「寺」といっても園城寺内のお堂のひとつである。)
延暦寺は比叡山内の堂塔以外に五別所といって、衛星のように寺院を置いたが、園城寺もそれに対抗して五つの別所を設けた。
常在寺、水観寺、尾蔵寺、微妙寺、近松寺である。このうち現存するのは近松寺のみで、
水観寺と微妙寺は園城寺内の一堂として寺名をかろうじて残している(他の2か寺は廃絶)。
右 本尊の十一面観音像
境内内の道脇には幾つもの石像
西国三十三所観音霊場、第十四番目の札所正法寺(三井寺観音堂)
本尊の如意輪観音は、一面六臂の像容で、寄木造、彫眼、漆箔像
礼堂・合の間・正堂からなり、内部には多くの絵馬が奉納されている
観月舞台 百体堂
観音堂を中心とする南院札所伽藍の百体堂、鐘楼
観月舞台は舞台造の建物で、眼下には琵琶湖疏水と大津の町並みが広がり、琵琶湖の景観を望むことができます。
古来より観月の名所として知られてきた三井寺にふさわしい優美な建物です。
百体堂は本尊と同じ如意輪観音像を奉安し、その左右に西国礼所の三十三観音像を二段に祀っています。
右には坂東三十三箇所、左には秩父三十四箇所の本尊を安置し、合わせて百体の観音像を安置することから百体堂と呼ばれています。
江戸時代中期以降、庶民の間に礼所巡礼が高まりを見せますが、本堂はその庶民信仰を示す建物といえます
水観寺 三尾神社
水観寺は明尊大僧正によって創建された園城寺の五別所寺院のひとつ。
別所寺院とは、平安時代から仏法を布教し、多くの衆生を救済するために本寺(本境内)の周辺に設けた別院のことです。
現在の本堂は、明暦元年(1655)の再建で、昭和六十三年に現在地に移築されました。
ご本尊、薬師如来は、一切衆生を病苦、災難から救済する仏として、いまも人々の尊崇をあつめています。
三井晩鐘
浮世絵師・歌川広重によって描かれた錦絵による名所絵(浮世絵風景画)
*
琵琶湖疎水入口
琵琶湖の湖水を、京都市へ通ずるために作られた水路(疏水)
明治維新と東京奠都に伴い京都市は人口が減少し産業も衰退したため、第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、
上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画、第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、
1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線が完成した。