小谷城址

国指定史跡 小谷城址 小谷城は戦国乱世の大永4年(1504)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから久政を経て 三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573)までの五十年間浅井氏が根城としたところである この城は信長の妹お市の方の住した所でありその子淀君や徳川秀忠夫人お江らの誕生の地でもあ


TV大河ドラマを記念し開かれたイベント会場


城址入口近くに開かれた会場

  
展示館内部には小谷城史跡の俯瞰模型があり説明してくれる

  
城址入口まで車で行く  ボランテアガイドが同道


、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城 戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城した


城は典型的な山城で標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ 下より尾根上に出丸金吾丸 番所 御茶屋 御馬屋 馬洗池 桜馬場 黒金御門 大広間 本丸 中ノ丸 刀洗池 京極丸 小丸 と続き海抜395メートルの山王丸を頂とする。

  
番所跡


現在は土塁・曲輪などのほか、先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っている

  
御茶屋跡


番所の直ぐ上に位置し、主郭の最先端に位置する。
比較的広く、曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られる。「御茶屋」という風雅な名前にはにつかぬ施設である


御馬屋跡
三方を高い土塁で囲まれた曲輪、本丸の前面にあり本丸を守るための曲輪である。


御馬屋跡から琵琶湖方面を望む

  
首据石                         赤尾屋敷跡への案内 右へ
家臣の今井秀信が敵方に内通したことでここに首をさらされたと伝えられてる

  
顕彰碑  大きな顕彰碑と墓所がある。ただしこれは後世(明治時代?)になって作られたもの


馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪で細長く左右二段からなる。西側の曲輪では建物の礎石が確認されている

  

  
この城跡で最も大きい平地家臣達を集めての会議などを行ったところ。このすぐ後ろの一段高くなったところに城主がいた本丸址

別名「千畳敷」と呼ばれる長さ約85m・幅35mで前面に高さ約4mの石垣が積まれている。
大広間跡は建物跡が検出されていりほか、石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。



  
江戸時代中期の絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を現していると考えられる。
構造については不明であるが、何層かの建物で会ったことが想定される。


一部石垣が残っている

  
本丸跡の北にある大規模な堀跡で尾根を大きく削ってある。番所あとから本丸跡までとその上を区切るためのもの


山登りに使われた杖はここに・・・