温泉神社(ゆぜんじんじゃ)
那須の与一が扇の的を射るとき、祈願をかけた神社

昔より温泉名を付けた神社は、延喜式神名帳(西暦900年代)に10社を数え、当温泉神社の霊験は名高く、 奈良朝時代の貴族の温泉浴のことは正倉院文書にも記されたいる。


後世那須余一宗隆西海に扇の的を射るに当り、当温泉神社を祈願し名声を轟かして那須郡の総領となるや領民こぞって温泉神社を観請し奉り、 現在那須郡内に約80社の温泉神社を数えるのをみればいかにこの地方の信仰を集めいたかが推察できる

  


大和さざれ石

  
7世紀頃、狩りで傷を負わせた鹿を追って山へ入ったところ、翁が現れ、鹿が傷を癒している温泉を告げ、そこで、温泉発見を感謝し、祠を建てたのが温泉神社の始まりと伝えられている

 



  
源平屋島の戦で扇の的を射た那須与一が戦勝祈願した神社ともいわれている。宝物殿には那須与一ゆかりの品や乃木大将の遺品などが展示されい

 

温泉神社と那須余一の関係 那須与一宗隆は、那須地方の豪族である那須太郎資隆の11男として生れ育った。源義経の東国参陣の時これに従い、以後義軽の騎下となって源平戦を戦った。 史上有名な屋島の戦いで扇の的を射て名声を上げ20万石を頼朝公から賜わった。温泉神社と余一との深いつながりを表すものとして「平家物語」にこう記載されている。 余一屋島で祈ることば、「南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え・・・」と、 凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進してその誠を表わした。余一は不幸にして24歳の短命で世を去ったが那須氏は代々厚く温泉神社を崇敬して慶長年間に至った。 後那須地方は黒羽藩大関氏の有となったが、大関氏は那須七騎の勇将であった関係上藩主の信仰富に厚く、20石を賜り明治に至った。


  



毎年10月8〜9日に行われる例祭には、神前に献湯し、獅子舞などが行われる。


 
隣接して九尾の狐伝説で知られる殺生石がある


那須温泉湯本に第34代舒明天皇の御代、狩ノ三郎行広が白鹿を追い求め、谷に湧く温泉を発見しと伝えられる