善光寺七社 妻科神社  
妻科にある式内社。祭神は諏訪下社の八坂刀売命または諏訪神の子妻科姫ともいわれている

境内の北側、石段の上に大きな社殿。
長野の神社なので、社殿の前には御柱も立っている。権現造の拝殿の後方、丘の上に拝殿と比して、やや小ぶりな本殿がある。

参拝は5月の連休最終日、早朝、日の出前で、境内はやや暗く、社殿前の燈籠に灯がともっていた。


創祀年代は不祥。式内社・妻科神社に比定される古社で、三代実録に貞観二年(860)二月五日、
従五位下を叙せられたとあり貞観五年(863)二月十四日には従五位上に進んだとある。

祭神は、八坂刀賣命。
式内社・健御名方富命彦神別神社の御祭神の妃神とされゆえに「夫無(つまなし)」とも称されることがあるらしい。

中世以降は戸隠神社の護法神として崇敬され『戸隠山顯光寺流記』の「山中之外王子之事」には
「井福・武井・妻成(科)御社之山王・善光寺之内白山一之護法也」とあるように湯福神社、武井神社と共に、善光寺三所鎮守として崇敬されてきた。



当社の神紋は、拝殿の幕に染められているように立梶紋。

境内の右手に境内社・天神社があり、その横に石碑や石祠が並んでいる。
「平成祭データ」には末社として、天神社の他に聖徳社、水神社、養蚕社の名が記されているが
境外にあるのか、これらの石祠なのか、確認していない。
地図を確認すると、近くに水神社という小社があるが当社の境外社かもしれない。


善光寺鎮座以前の水内神として諏訪大社の県内に最も古い分社のひとつです。御祭神は諏訪大社下社八坂刀売命を奉祀しています。
創始年月は明らかではありませんが、『三代実録』貞観2年(860)2月5日の条に「正六位妻科地主神ニ従五位下ヲ授ク」と記録にあり、
それ以前より当地に存在していたことがわかっています。また延喜年間(901〜923)醍醐天皇の時の『延喜式』神名帳に信濃国48社のひとつとして記載されています。
延文2年(1357)の『諏訪大明神絵詞』中「当社別宮の事」には「水内の郡 善光寺別社の事」、
『日本記』第30には「持統天皇五年、遣勅使祭諏訪水内神」「是則当郡水内善光寺 内の当社なり、毎夜寅ノ刻大明神御入堂ありて
、円陣の扉を開て諸入三業しつめて法施祈念す」とあります。いずれも現在の健御方富彦神別神社(通称城山県社)と一体をなす水内神であり、
それに含有されるのが湯福神社、武井神社です。また、他に『日本三代実録』貞観2年(860)2月5日の頃に、
「信濃国正六位上妻科地神を従五位下に叙す」ともあります。中世、当社は戸隠護法の神として 
「湯福、武井、妻科、善光寺の内白山一之法也」と長禄2年(1458)『戸隠顕光寺記』に記されています。また、元禄5年(1692)
『善光寺惣目録』にも、湯福、武井とならんで善光寺三社鎮守と記され、堂童子行事には三社明神に7度参詣すると定まっていました。
祭神の八坂刀賈命は、健御名方命(お諏訪さま)の御妃神で、また古くは両神の御子神である妻科姫命がまつられていました。
八坂刀賈命の「ヤサカ」には、信濃に多くの峠、坂があることから、旅を安全に導く女神さまという意味がこめられています。
また「弥栄(イヤサカ)」にも通じ、山国信州の守り神でもあります。
彦神別命は両神の御子神として長野市城山の健御名方富彦神別神社(水内大社)におまつりされ、
水内郡の開発、経営にあった神さまです。古くから「ツマシナ」と呼ばれ当社は、松代藩より社領2石の寄進があり、川北17ヵ村の総社として祟敬され現在に至っています

延喜式内社であり、長野市内でも有数の由緒ある神社として知られている。県庁の北側の段丘上にあり、河童は、昔ここの滑り台で遊んだ記憶がある。
 『長野市誌』には、近世まで本社の裏に御宝塚(おたからづか)という古墳があったとある。今は壊されてしまったのかなあ? 周りは住宅がひしめき合っている。
でも、神社の西側に宝塚通りという古墳の名前にちなんだと思われる通りがある。ひょっとして、あの滑り台のあたりが古墳だったのか〜。
 祭神は八坂刀売命(やさかとめのみこと)で、相殿は健御名方命と彦神別命(ひこがみわけのみこと)を祀っている。
八坂刀売命と健御名方命といえば、夫婦で諏訪大社に祀られている神様。宝暦14年(1764)に妻科神社と改称されるまでは、諏訪大明神と呼ばれていたという。
市誌には、この神社が上社で、下社が近くにあったという記述も…。ミニ諏訪大社ってところかな?
 そしてまた一説には、本田善光の妻・弥生の前を祀るとも…。湯福神社・武井神社とともに善光寺三鎮守、善光寺七社の一つでもある。