明治13年(1880)岩野村から県知事に提出した取調書に、「斎場山は本村南より東に連なり、平地面との差は100mほど。 祭祀壇49個あって、みな円形である。この地は国造りのはじめより埴科郡領の斎場祭壇を設けて、郡中一般の祭祀をした所である。上杉陣営跡は、南斎場山に属す」とある。 妻女山は、古代より近代初めにかけて「斎場山」が正式表記で、『甲陽軍鑑』や戦国期の古文書に見られる「西条」山は「斎場」山の借音表記である。 第4次川中島の戦いの際、妻女山の謙信が、夜陰に紛れて千曲川を渡って、武田軍をなぜ奇襲できたか、それを信玄が、なぜ察知できなかったかを知る記述が『甲陽軍鑑』にある。 この書に「武田軍は合戦の場合でも一食一炊飯。謙信は午後9時ころに西条山を出発して、雨宮渡しを越え、対岸に移った。1万3千の大兵でも物音一つ聞こえなかった。 それは、越後勢は合戦のときは、一人に三食分の朝食を用意させておく軍律となっているためである。夜になって人馬の食物をつくることがなく、火を焚く色が見えなかった」と記している。 稲穂が黄金色に垂れはじめた頸城(くびき)の里を上杉の将兵は、8月14日に川中島へと出陣した。 新暦10月2日である。9月9日は新暦10月27日である。信濃の冬は早い。 遠望する山々は冠雪。川中島の里にも雪が舞いはじめた。秋の取り入れは、冬支度はと、将兵の妻女を案ずる思いは日毎に募っていった。 江戸時代に入って、次第に川中島の戦いが物語化、ロマン化されて、将兵の妻女を思う心情を表記に託して「妻女山」としたのではなかろうか・・・・