中野市では古くから良質な粘土が取れたこともあり、土人形の制作が盛んに行われてきた 土人形は、無病息災や子供の成長を願い造られてきた 一つ一つ手作業で作られることから、大量生産には不向きだが、趣と温もりのある土びなである
明治30年代半ばに当時、西原己之作(初代)は、安源寺地区で瓦の製造をしていた 愛知県三河の鬼瓦職人・斉藤梅三郎(本名 梅太郎)が、冬季間の副業として土人形を作らせたのが始まりといわれている 斉藤梅三郎は、全国的にも有名な鬼瓦職人であり、歌舞伎に造詣が深く、土人形作者のために多数の歌舞伎人形の型を提供したといわれる 現在は、4代目故西原邦夫氏の奥様(五代目・西原久美江氏)とご子息が制作している
中野人形(奈良家) 江戸時代後期の文化・文政年間ごろ(1804−1828)に初代の奈良栄吉が京都へ福寿草を売りに行き、 伏見の土人形に心をひかれ、その人形型を譲り受け、更に夫婦者の職人を中野に呼び寄せ、作り方を習い制作したのが始まりといわれている 栄吉は伏見から約40回にわたって、百数十個の人形を持ち帰ったと伝えられている 現在は、五代目奈良久雄氏と六代目奈良由起夫氏が制作している