天平年間、僧行基が当社に参拝し、社殿を造り弁財天女を刻んで安置したことから、弁財天のお社と誤解されたと云われている、 初め弁財天または宇賀弁財天宇賀神と称し、後に宇賀神社となった。僧行基が刻んで安置したご神体は、今も現存しているという
平安、鎌倉、室町を経て、戦国時代に及んで武家の崇敬が厚い。越後の上杉謙信も当社を厚く崇敬し、重臣宇佐見定行も(野尻城主・琵琶島城)本社を崇敬した 境内には上杉謙信がたてた宇佐見定行の墓がある。 慶長年(1596〜1615)には、中森右近太夫忠政が飯山城主となり、本社を崇敬して武運長久を祈った。以来、歴代飯山藩主の祈願所となった。