坤櫓とは、駿府城の二ノ丸の南西の方角に位置する櫓で、この坤(ひつじさる)という名は、築城当時には方位に干支が用いられていて、 北を子(ね)として時計回りに割り当て、南西の方角は未(ひつじ)と申(さる)の間であるため、 坤(ひつじさる)と呼んだことに由来している
伝統的木造建築工法で再建![]()
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建築用木材については、樹齢百年を超える木材が必要であったため、静岡市木材業協同組合を通じて、 静岡市葵区玉川地区など地場産木材を中心に杉・檜と共に、良質な松材の産地である山陰の松を使用した
徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府に移り住み、慶長12(1607)年,家康は、輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、 本丸の北西には5層7階の勇壮な天守を配置した城を全国の大名に命じて(天下普請)築城させました。 家康在城時の駿府の町は、江戸と共にいわば2元政治が行われていたため、政治、経済の中心地として大いに繁栄していた。 家康の死後、城主となった忠長が改易されると駿府城は城代の管理となり、寛永12(1635)年の火災により天守等の殆どの建物が焼失し、 櫓、門等の建物は再建されますが天守は再建されませんでした。 以後江戸時代の駿府城は、建物の規模も次第に縮小していくこととなり、明治時代になると、歩兵34連隊の誘致に伴い本丸堀は埋められ、 三ノ丸は官庁や学校などの公共用地となる。戦後、本丸、二ノ丸部分は公園として整備され、巽櫓、東御門、坤櫓(ひつじさるやぐら)の復元もされ一般に公開される。
120年ぶりに掘り出され、姿を現した石垣の長さは南北約68m、高さは約5.6m。 長さだけ比較しても江戸城天守台(南北約45m)の1.5倍と、その規模は目を見張るものがある
【駿府城跡天守台発掘調査】 駿府城の天守台は、明治29年に取り壊され、その土砂で本丸堀は埋められてしまう。 今回の発掘調査は、家康公の死後400年を経て初めて行われる本格的な調査で、埋められた本丸堀を掘りおこし、地中に残された天守台の全容に迫ろうというもの。 期間は2016年8月から2020年2月まで、毎週月〜金曜日と第4土・日曜日に実施している。 発掘現場の「見学ゾーン」、「発掘情報館きゃっしる」は、年末年始を除き毎日公開している。 見学ゾーンからは自由に発掘現場を観覧できるほか、「きゃっしる」では、江戸時代の瓦などこれまでの発掘品に触れられる展示や調査の速報展示も行いる。