古くから、巨石で作られた玄室が露出しており、その玄室の形状から石舞台の名前がついていた。 玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。石室内部に排水施設がある。約30の石が積まれ、 その総重量は2,300tに達すると推定される
一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳である 外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)
1933年(昭和8)と1935年(昭和10)に京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査を行う しかし、すでにほとんどの埋葬品が盗掘にあった後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった 『日本書紀』の推古天皇三十四年(626年)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。」とある。 大臣は、馬子のこと。 石舞台古墳は、蘇我馬子の墓であったというのが、有力な説として挙がっている。 盛土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する怒りという説もある。
天井には星座や赤道など本格的な天文図が描かれ、太陽や月も描かれている。 中国や朝鮮などに残っている最古の天文地図は11世紀や12世紀のものであるから、 現存する天文図のなかでは世界最古ではないかと注目をされている
発掘調査が行われた際に鮮やかに彩色された壁画が発見されたことで知られる。 古墳は1972年6月17日、特別史跡に、また極彩色壁画は、国宝に指定されている。 石室は、平面の内寸は103.5cm×265.5cmで、高さが113.4cmある。 壁画は、北壁の中央には玄武が、南壁に朱雀のはずだが鎌倉時代の盗掘にあい上の方に大きな穴が開けられている。 東壁の中央に青龍が、その上の方に太陽、そして、左側に女子群像が、右側には男子群像が描かれている。また西壁の中央に白虎が、 その上の方に月が、そして、右側に女子群像が、左側には男子群像が描かれている。
左右に善相と悪相が彫られており,人の心の二面性を表現しているという。 背中合わせの二つの顔はそれぞれに人の心の善悪を象徴しているそうで、左が善の顔、右が悪の顔 護摩堂(不動明王)
発掘調査によって、一塔二金堂に三面僧房をめぐらした荘麗な伽藍だったようで、調査後はすべて埋め戻され、 今はその上に創建時の伽藍配置がわかるよう整然と礎石が並べられ史跡公園として整備されている
亀型石像物は、全長約2.4メートル、幅約2メートルの大きさの亀の形をした器のようになっていて、 上の水槽に溜まった水が、亀の頭の部分から甲羅へと流れ、水路を伝う仕組みになっている 誰が何のためにつくったのかはミステリーですが、造ったのは、飛鳥苑池遺構などを営んだ斉明天皇 (皇極天皇と同一人物)だろうと言われています
銅造釈迦如来坐像(重文)−飛鳥寺(安居院)の本尊。飛鳥大仏の通称で知られ、鞍作鳥の作とされる。 当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずだが、両脇侍像は失われ、 釈迦像も鎌倉時代・建久7年(1196年)の火災で甚大な損害を受けており、 、当初の部分は顔の上半分と右手の指の一部に残るのみだという。 596年(推古4年)に蘇我馬子によって建てられた本格的伽藍配置の日本最初の大寺院