奈良時代の末期、皇太子の山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒の祈願のため、五人の僧が山中で祈祷をし効果があったことより、 国家の為に建立したのが室生寺です。 伽藍の造営に当たったのは興福寺の高僧修円で、 この人は空海や最澄に並んで平安時代初頭の仏教界を指導する高名な学僧でありました。 興福寺の法相宗を始め天台・真言・律宗などの高僧を迎え、山林で修行するかたわら各宗を勉学する道場として、 仏教界に大きな役割を果たします。 しかしその一方では、谷を走る清流や、龍が住むという山中の龍穴などから龍神の信仰が生まれ、 これに雨乞いの祈願をするため、平安前期以来度々朝廷から勅使が派遣されて、 龍神の室生の名は広く世に知られるようになりました。
奥深い深山という室生寺の環境は、密教の道場にふさわしいことなどから、次第に密教的色彩を強め、 鎌倉期には真言密教の最も重要な儀式を行う灌頂堂と、弘法大師を祀る御影堂を奥の院に建立した。 しかし真言密教の根本道場である高野山が、厳しく女人を禁制したのに対し、 室生寺は女人にも開かれた道場『女人高野』として広く親しまれるようになった。