慈眼院はもともと高野山金剛峯寺の塔頭寺院のひとつで、学侶方の寺院として隆盛を誇っていた 明治の廃仏毀釈で高野山でも寺院の統合廃寺がすすむなか、衰退しつつも慈眼院は昭和初期まで存在していた 高崎白衣大観音建立後、昭和16(1941)年に高野山より別格本山として高崎への移転が決まった 高崎千体観音堂(本堂) 昭和61年、白衣大観音建立50周年を記念して建立されたのが慈眼院の本堂
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続紀伊風土記に、鎌倉中期、鎌倉坂の下村の安左衛門という文人が、由比ヶ浜で漁した時に、網にかかって上がった尊像であると記されている。 厨子内垂幕には享保年間修復の記があり、光背及び台座はその頃のものと思われる。 本尊については不詳であるが、その楚々とした微笑のかげりや印相や衣紋のたたずまいには遙か遠い時代をしのばせるものがある。
高崎白衣大観音は、昭和11(1936)年、高崎の実業家井上保三郎により建立された。 井上保三郎翁は、高崎十五連隊の戦没者の霊を慰め、世の中に観世音菩薩の慈悲の光明を降り注ぎたいと念じ、 さらに高崎の発展を願って、古来観音に縁の深い観音山頂に建立されたのです。 観音像は高さ41.8m、重さは5985tのコンクリート造りとなっております。 以来、北関東における観音信仰・大師信仰の中心地として、広くその名が知られてまいりました
群馬県高崎市の高崎観音山丘陵にある大観音(白衣観音)像 観音山の山頂、標高190mの地点(高野山真言宗慈眼院の境内)にあり、最上階(観音像の肩部分)からは高崎市街地や群馬県の主な山々、 さらには八ヶ岳等まで一望できる。通称「高崎観音(たかさきかんのん)」。高崎市民は「観音様」と呼んでいる。
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