扇谷山 海 蔵 寺 
鎌倉市扇ガ谷4-18-8
江戸時代には塔頭7院を数える名刹であったが、現在は本堂と仏殿があるのみ。
不思議な十六の井戸がある。


扇ヶ谷の通りの最奥に位置するの寺
花の寺として有名。シャガ、カイドウ、ハギ゙、りんどう,シオン、さざんか他の花々特に春のカイドウと秋に参道を彩るハギが有名
(訪問が12月のため美しい花には会えず、再度春に訪問を!)

    
海蔵寺は、季節の花に彩られる花の寺である。本堂裏の心字池、山門脇の底脱の井(鎌倉十井のひとつ)、薬師堂裏の十六の井に清らかな水を湛える水の寺である

  
寺に向かう道の正面に参道・山門が                               鐘楼


海蔵寺が建てられる前のこの地には、真言宗の寺が建てられいた。 その旧蹟に、1253年(建長5年)、六代将軍宗尊親王の命によって、
藤原仲能(道智禅師)が七堂伽藍を備えた寺院を建立したが、1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによる兵火をうけて焼失した。

 応永元(1394)年創建。開山は、源翁禅師(げんのうぜんじ・心昭空外) 現在の本堂は、関東大震災後、大正期に再建されたもの

  
仏殿 (薬師堂)
薬師堂は、1777年(安永6年)に浄智寺から移築されたもので、1577年(天正5年)の建物といわれている。


 本尊薬師如来の他、脇侍、十二神将、伽藍神が安置されている

 本尊の薬師如来の胸部には四角い扉があって、その中に薬師如来の頭部が納められており、 胎内の像を拝観できるのは61年ごと 「啼薬師」(なきやくし)あるいは「児護薬師」と呼ばれ、子育てにご利益があるといわれている。

  
山門からの正面にある本堂

  
十六井戸の見学には真っ赤な日傘の下にある記帳、見学料100円


本堂左手に進み、民家と岩壁に挟まれた小道を行くと十六の井がある

  
暗い洞窟に16の井戸が並ぶ十六の井       仏殿裏のやぐら内に湧水をたたえた16個の穴があ る

直径約50pの穴は弘法大師が掘ったとも、納骨穴の跡ともいわれるが何のために造ったのかは分からない
窟の中央に石造りの観音菩薩像が安置され、その下に弘法大師像を安置されている。井戸の名は径70cm、深50cmくらいの井戸が16あることにちなんでいる
きれいな湧き水を湛えるこの不思議な井戸は、決して枯れることがないという
正面の岩肌に彫られているのは、上方が観音様、下方が弘法大師像

 

 庫裡は、鎌倉寺院の庫裡建築を代表するもので、歴史的価値が高い。  門前には鎌倉十井の一つ「底脱ノ井」が、仏殿裏には十六の穴が掘られた「十六ノ井」がある。

  
底脱ノ井
鎌倉十井の一つで、海蔵寺山門右側のやぐら内にある

言伝えによると、昔安達泰盛の娘千代能(一説には上杉の尼)が参禅した折、この井戸の水を汲むと桶の底が抜けてしまった。 この時、心の中にあった煩悩が氷解し、悟りの境地に達したというのである。 「千代能が いただく桶の 底ぬけて 水たまらねば 月もやどらじ」


海蔵寺までの一本道の扇ヶ谷の通り

  
扇ヶ谷の通りと亀ヶ谷坂切り通しへ丁字路に立つお堂



岩 船 地 蔵

悲恋のうちに短い生涯を閉じた大姫(源頼朝の長女)の守り本尊を祀る

堂内には白顔の地蔵が安置されている。源頼朝の息女・大姫の念持仏と伝えられている。日本三大岩船地蔵の一つである。 大姫は不幸な娘であった。人質で鎌倉へ来ていた木曽義仲の嫡男・義高と馴染んでいた。 木曾義仲が近江粟津で源頼朝の追討軍に殺害された後、頼朝は人質であった義高も殺害した。 義高が殺害された後、大姫はノイローゼとなり頼朝、政子の願いも空しく、建久8年(1197)、20歳の若さで亡くなった。 哀れな死をいたむ北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺の送りをしたと伝えている。木曽義高の墓は常楽寺の裏山にある。