推古天皇の頃、今の隅田川で投網漁をしていた漁師の網に一体の仏像がかかった。 それを土地の豪族が尊い観音像であることを知り、深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、 礼拝供養に勤めた。これが浅草寺のはじまりと言われている。 江戸時代、天海僧正(上野東叡山寛永寺の開創)の進言もあって、徳川幕府の祈願所と定められ、 いわゆる江戸の信仰と文化の中心として庶民の間に親しまれ隆盛をみるようになった 今日、東京(江戸)の発展は江戸城構築からの徳川幕府にはじまると思われがちですが、 古くから宗教的にも文化的にも庶民の拠点であった。 江戸が東京にかわったときでも、文明開化の先駆的な役割を果たし、庶民の信仰と文化の一大中心地として発展してきたといえる。 仁王像の裏側 参拝が済んで皆さん幸せそうな表情で帰路に 浅草寺は大黒天をお祀りしている(俗にいう米びつ大黒) 本堂の東側 二天門から入った所からの眺め 鎮護堂 * * 浅草神社 浅草神社は、浅草寺本堂右隣にある神社、通称に三社権現(さんじゃ ごんげん)、三社様(さんじゃ さま)。5月17日の例大祭は三社祭 社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。 兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。 その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。 土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。 祭神: 土師真中知命(はじのまつちのみとも)・檜前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)・前武成命(ひのくまのたけなりのみこと) この三人の霊をもって「三社権現」と称される実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。 ご神体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っている為、神社の格としては江戸一低いといわれている。 明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に、明治6年に現在の浅草神社に改称。